情報の通り道の容量と受け手の容量−過去のメディアとネットの整理

受け手の容量が情報の通り道の容量の急拡大に追い付かない

過去,マスメディアが情報伝達の主なパイプだったころ,ある出来事をニュースで大きく取り上げることは、その半面で他の出来事の比重が小さくなるということだった。受け取る人の能力に限界があるため、「大きく取り上げられる」ことがその出来事の重要性を測る有効な指標となる。そして,大多数の人が取得する情報には時間差も質の差もなかった。

なぜある出来事が大きく取り上げられるのか。それは伝え手が受け手にとって重要な情報だと判断したからだ。出来事の重要性は一旦伝え手が定義する。それを受け手が再評価するというのが健全な形だった。だが,一方向で限られた情報源しか与えられない状況では伝えられた情報の再評価は難しい。情報の再評価をするためには、多数の異なる情報源を持つ必要がある。

ではどれだけの人が多数の情報源から「自分の頭で考えて」情報を再評価しているのだろうか。私はそれほど多くないと思う。なぜなら、そうする訓練を受ける教育の場が日本には無いからだ。(少なくとも自分は覚えていない)メディア、為政者の立場からみると、与えられた情報を鵜呑みにする集団ほどコントロールしやすいものはない。他の出来事に対する評価の機会を奪ってしまえばいいのだから。そして、受け身で単一のソースから情報を得ることに慣れてしまうと、情報を判断する力と情報を得る意思をなくしてしまう。戦時中のように教育次第で、コントロールしやすい集団を作り上げることが可能なのだった。

出来事の本当の姿を知るためには、「周りの意見」に流されずに、情報を取得して評価する力が必要とされていた。

だが,これはインターネットの発達によって情報の通り道が飛躍的に大きくなった現在は大きく異なる。梅田望夫さんがウェブブック『生きるための水が湧くような思考』日本人の前にそびえたつ「言語の壁」という難問で述べられているように,まず情報を取得する力が問われるようになった。情報を受け取る人の能力に進化がないにもかかわらず,情報伝達のパイプだけがどんどん大きくなっている。つまり,情報を再評価して受け取る力を持ち,それを補助するツールを使いこなせる人(英語やgoogle readerなどのアプリケーション)とその他の人との格差が広がっているということ。

ただ,漫然とインターンをこなすだけでなく,情報を再評価する力(InputとOutputを絶え間なく繰り返すこと)と情報を取得するツールを身につけること(英語力)をここオーストリアにいる間に鍛えたい。