技術者倫理と技術経営

1. 「技術者には一般人以上の思い責任がある」という考えについてどう思うか

技術者には一般人以上の思い責任があるという考え方には賛同する。その点について分業の観点から述べる。
狩猟・採集が主だった時代から、農耕が始まり分業が生じた。それ以来、人々がもつ情報や権利の差が、その人の役割に応じて生じるようになった。そこでは、ある人が他者よりも優位な情報をもつ場合には権利を持ちうる。しかし、権利と責任は裏表に値する物だと私は考える。なぜなら、権利を行使すると同時に、その責任を果たすというルールについては、もし自分が守れば他者も守る、もし自分が守らなければ他者も守らない、ということがかなりの確率で起こりうるからだ。つまり、自分が自分の専門外の人の責任に依存する場面が多くあるため、自分も自分の専門性の範囲内では責任を守らなくてはならないということだ。
もちろん、道徳的に当たり前という見方もある。しかし、これはともすると、宗教のない日本という国柄、そして論理的思考を得意とする技術者という職業柄、最も理解しやすい考え方とはいえないのではないだろうか。自分自身は当たり前と思っていることでも、当たり前と思っていない人に対して説明する必要があるとき、「当たり前だから」では議論ができない。
だから自分は、道徳的に当たり前だという視点ではなく、責任を果たすことが、結果的には社会で生きていくためのコストを下げることになる、という考え方のもと、「技術者には一般人以上の思い責任がある」という考え方に賛同する。


2. 社会契約モデルや誇りモデルは自分にとってそうした責任を担う理由となるか

責任を果たす動機をプロフェッショナルと社会と関係からモデル化した2つのモデル、社会契約モデルと誇りモデルは自分にとってそうした理由とはならない。それは前述のとおり、自分にとっての責任を果たす動機は自身と社会との関係ではなく、自身と他分野のプロフェッショナルとの関係にあるからだ。
社会が教育機会・自律性・特権を与え、プロフェッショナルがその見返りにサービスや倫理を提供するという社会契約モデルは自分にとってはそうした責任を担う理由とはならない。自律性や特権は本質的には社会から与えられるものであるが、そういった状況に慣れてしまうことで自律性や特権は自身の専門性が社会から勝ち取ったものであると勘違いし、その対価である責任を放棄することが多々あるように思えるからだ。たとえば、政治家は移動のために新幹線のグリーン車を税金でまかなってもらっている。初めのうちはそれに感謝しても、数年立つと、それが当たり前になり、空席がないと腹が立って仕方ないという話を聞いたことがある。そのため、社会契約モデルはそうした優遇された状況に安易に慣れてしまうであろう自分にとって、そうした責任を担う理由とはなりがたい。
また、プロフェッショナルが社会から尊敬や依存を与えられ、その見返りとしてサービスを提供するのだが、同時に自身に誇りある仕事という正のフィードバックを与えるという、誇りモデルも自分にとってはそうした責任を担う理由とはならない。例として挙げられていたシティー・コープビル(1977)を設計したウィリアム・ルメジャーにしても、誇りが彼を動かしたのではなく、恐怖が彼を動かしたと私は考えるからだ。ビルの強度に問題があることを施工後に知ったルメジャーがその事実を自身で告発したのは、リスクのインパクトの大きさ(何千人もの人命に関わる)、自分で何とかできる範囲の問題であること、そして、想定される罪悪感に対する恐怖がその種たる原因ではないだろうか。つまり、行動をしなかったときに失う物への恐怖と、自身で告発したときに失う物に対する恐怖を比べたとき、後者がはるかに勝っていたために、ルメジャーは告発という行為にいたったのではないか。これはリスクマネジメントの観点からも妥当な行動であり、企業人としての倫理とも一致する。私自身も誇りよりは、恐怖に動かされる弱い人間だと自身を認識している。
よって、社会契約モデルや誇りモデルは自分にとってそうした責任を担う理由とはならない。